2018年4月の本

新年度です。絶賛花粉症でした。
今月はバリバリ新しい業務をこなしつつ、前年度に仕込んでおいたものが徐々に成果として出てきて比較的気持ちの良い一ヶ月だった。
下で記した『POSSE』での連載に加えて、西周についての査読論文、地域活性学会の報告などなど。

レヴィナスについての共著論文もかたちが見えはじめてきたかなという感じ。気を抜かずに最後までやるべし。
そんなわけでここ最近は2010年以降に出た比較的新しい論文集を読み返すことが多いのだけれど、Lire Totalité et Infini d'Emmanuel Levinas : Etudes et interprétationsが頭一つ抜けているかなあという印象をもった。

「今月の本」のルール

  1. 毎月読んだ本をリストにしてブログを更新。
  2. 専門的な論文や仏独語の研究書などは除く。
  3. 読んだと言っても、必ずしも全頁を読みきったことは意味しないし、再読したものもある。
  4. とはいえ、必ず入手し、本文に少しでも目を通すことが条件。
  5. コメントを書くかどうかは時間と体力次第。

[asin:490923716X:detail]
瀬下と一緒に書いた「下宿と津和野:自律した知的探求と親密さについて」(『それぞれの町で』第3回)」が掲載されております。
タイトルの通り、NPOの基幹事業である高校生向けの下宿について書きました。
自分たちが心の底から愛している思想や文芸、批評といった人文知の惨状と自分たちの挫折、そして再生。地方だからこそできる実践と未来への抱負。そんなことを書いています。ぜひご一読いただけると嬉しいです。

[asin:4255010498:detail]
訳者のお二人よりいただきました。ありがとうございます!
プラトンの『ティマイオス』や『クリティアス』を現代の考古学の知見をもとに読み直そうというもので、知的好奇心を刺激される一冊でした。読んでいるときのこの不思議なわくわく感は川添愛さんのこのツイートがまさに、という感じ。




  • 那覇 潤『知性は死なない』

[asin:4163908234:detail]
[asin:416790084X:title]』で著名となった研究者による復活の書。発売前から気になってはいたが、最初は手に取るのが怖かった。
まだ消化できていないが、真摯に受け止めるべき一冊なのだろうと思う。反知性主義と反正統主義の整理は有用だろう。筆者の出す、論理/身体の二分法なんかにはちょっと粗雑さの方に目がいってしまうが、おおよその流れとして、哲学に疎い人が読むには良いということにしたい。

  • 三谷 博『維新史再考』

[asin:4140912480:detail]
苅部氏の『[asin:410603803X:title]』とともに新しい幕末・維新史の定番となるべきものだろう。両者のあいだには、江戸時代後期と明治時代には断絶でなく連続性があるという態度が共有されているように思う。
本書の特徴は、世界的な趨勢や制度、世論に着目して幕末・維新を描いているところだろう。明治維新と言うと、どうしてもスターたる志士たち個人に焦点を当てたサクセスストーリーとして語られがちだが、西洋・東アジア・日本という枠組みや日本のなかでの細かな政治的なうねりを背景に時代の転換を眺めることができる。

緑雨さんから話を聞いて手にとった。
「『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない」という有名な文からはじまる。のっけからドストレートである。
石川は傍観者という切り口で鴎外を読むんでいるが、ここで気になるのは、西周との関係である。
『澁江抽齋』など史伝の卓抜さを踏まえると、より詳細に史料に当たれたはずの『西周伝』はなぜあんなにも「凡庸」なのかという問題だ。西周の家に下宿もし、結婚関係でいざこざもあったゆえに、傍観者になりきれなかったことが作品としてのクオリティに影響しているのかもしれない。そんな話と二人でした。

arazaru.stores.jp
三上良太「クセナキスレヴィナスを中心とした現代音楽小史: 『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』理解のための一助に」を読むために買った。哲学者、エマニュエル・レヴィナスの息子は、ミカエル・レヴィナスと言い、現代音楽ではそれなりに著名な作曲家である。
三上論文は、『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』に一箇所だけ登場するクセナキスの「ノモス・アルファ」への着目を出発点とし、クセナキスの生い立ちや思想、さらにはミカエルの位置づけを現代音楽学の系譜を紐解いてくれるもの。私のような父レヴィナス研究者にはなかなか入っていけない領域のため、大変勉強になった。今後も加筆増補を予定されているとのことで、三上さんの研究を受けて父側の研究者がAEのテクスト解釈を擦り合わせていく作業もできればと思う。

  • 島崎 藤村『山陰土産』

島崎藤村 山陰土産
青空文庫で読めます。これは寝る前にだらっと読んだ。
大阪から山陰までの12日間の旅の記録であり、終着点は津和野である。
新聞社から依頼を受けた仕事で、次男も伴っての旅路とのことだから時代だなあというほかない。

津和野の町長望月君は私達に見物させる獻立までも既に用意して置いてくれた。同君にいはせると、見せたいところはいろ/\あるが、さうは時間が許さない。先づこの町の全景を見渡すことの出來るやうな稻荷神社の境内へ、土地の誇りとする嘉樂園へ、舊藩の英主龜井公の碑いしぶみの前へ、中學校、小學校の庭へ、それから舊藩の文武の學校で津和野藩の人材が皆養成されたといふ養老館の跡へ。暮れさうで暮れない夏の日も、自動車で驅け廻わつて見る旅の私達には短かつた。
「工業や商業はほかの町に讓るとしましても、教育事業だけは津和野が引受けて見せますよ。」
望月君はこんな熱心な調子の人だ。
…(中略)…
養老館の跡を訪ねるころは、そろ/\薄暗かつた。こゝは故鴎外漁史の生地と聞くもなつかしい。養老館には學則風のものを書いた、古い額も殘つてゐる。國學、漢學、蘭學、醫學、數學、武術――鴎外漁史の學問にそつくりだ。人の生れて來るのも偶然ではない。構内には郷土館があり、圖書館があり、集産館の設けもあつて、小規模ながら津和野ミユウゼアムといへるのもめづらしく思つた。

およそ今でも変わらない観光スポットが描かれている。
ちなみに、この望月町長(望月幸雄氏)は津和野町史においても度々取り上げられる人物である。
当時津和野には中学校がなかったところ、氏はまず鹿足郡立高等女学校を津和野の養老館跡地に誘致し、その後、この女学校は県立に移管されて津和野中学校に、そして現在の津和野高校になっていく。このように、望月町長は藩校養老館の伝統を引き受けつつ、新しい教育事業に尽力した人物らしい。

また、藤村は津和野を自身の故郷(岐阜県中津川市)とも重ねながらこう語っている。

津和野に來て見ると、こゝにはすでに長州の色彩が濃い。石見からするものと、長州からするものとの落ち合つたところが、津和野の津和野らしい感じであつて、ちやうど眞水と潮水との混り合つた河口の趣に似てゐる。長州の方からさして來る潮はこゝで石見の眞水と合ふ。おそらくかうした土地柄にのみ見出さるゝものは、その邊の微妙な消息は、人の氣質にも、言葉にもあらはれてゐよう。私は自分の郷里が信濃の西のはづれにあつて、殆んど美濃に接近してゐるところから、かうした津和野のやうな土地柄には特別の興味を覺える。その意味から、こゝを鴎外漁史の生地と考へて見ることもおもしろい。

津和野を長州の潮水と石見の真水のちょうど混じり合ったところと評するのは面白い。
事実、津和野藩は長州藩浜田藩に挟まれた小藩であり、両藩から様々な文化的・経済的影響を受けつつ、幕末には協力な外様と親藩とのあいだの緊張関係のもと明治まで生き延びた。汽水域が豊かな漁場であるように、それぞれ異質な国からの影響の混じり合いが、この小さな山間のまちから鴎外をはじめとした多くの傑作が生まれたことの背景にあるのかもしれない。

[asin:4480066276:detail]
なんとなくフーコーの気分になったので購入。熱い入門書だった。
フーコーは大学に入ったときにそれなりに関心をもっていくつか読んだし、l'ordre du discoursなんかは原文の読書会までしたものの、いまいち統一的な像を結べていなかったし、最近はめっきり彼の本を開く機会も減ってしまっていたので良い刺激を受けた。

  • A. Rimbaud, Poésies complètes

[asin:2253096350:detail]

  • A. Rimbaud, Poesies / Une Saison En Enfer / Illuminations

[asin:2070409007:detail]
先月邦訳を読んで、ちょっと原文を味わいたくなったので購入した。
色んな版があるが、適当にえいと頼んだところ、開くととびらには“1870-1872 ”とあり、無事死亡。つまり『地獄の季節』も『イリュミナシオン』も入っていない。というわけで、泣く泣く下のガリマールのものを購入。「錯乱Ⅰ」などを読む。