2018年9月の本
秋になったかと思えば、思い出したように夏っぽい日が回帰して、どうにも落ち着かない9月でした。
仕事に圧死しそうになりつつも、質の高い読書ができたように気がします。
「今月の本」のルール
- 毎月読んだ本をリストにしてブログを更新。
- 専門的な論文などは除く。
- 読んだと言っても、必ずしも全頁を読みきったことは意味しないし、再読したものもある。
- とはいえ、必ず入手し、本文に少しでも目を通すことが条件。
- コメントを書くかどうかは時間と体力次第。
- 山本 貴光『投壜通信』
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山本さんよりいただきました。私のようなものにまで瓶が届くなんて…ありがとうございます!
稀代の読書人による破産の薦め。読んでいて目眩がしてしまう。ブックガイドから漱石、円城塔評、「附録本との遊び方」など読書の秋に嬉しい一冊です。
次回作の『日本語文法小史』も今から楽しみで仕方ありません。
…このときの西の主眼はどちらかというと、諸学が連環しながらもばらばらに「切れている」ことの重要性にあったようです。……
西は一八八〇年代初頭にscienceに「科学」という訳語をあてはめたことでも知られています。この言葉は漢語からの借用ですが、「分科の学」、すなわちばらばらに分かれている学問という意味があります。科学史の分野では、この「科学」という語のせいで、本来のscienceの意味が日本人には伝わりづらくなったといわれています。第一章で確認したとおり、もともと、scienceは知識や学問そのものを指すラテン語 scientiaに由来するわけですが、「科学」の語からはそのニュアンスは伝わってきません。p. 98f.
1880年代初頭とあるが、なんの文献だろう。おそらく西による「科学」の初出は1874年の「知説」(四)である。
とはいえ、事情は入り組んでおり、この「科学」はいまで言う「学科」くらいの意味であり、scienceの訳語ではない。むしろ同じ論文で、西は「学」にサイーンスとルビを振っているので、scienceは「学」と訳していると言えそうである。
また、隠岐先生が参照している『百学連環』(1870年ごろ)では、たしかに諸学の分科と連環を説いているし、いわゆる文系理系の区分も導入している。しかし、sienceはこちらでも「學」ないし「學問」と訳されている。たとえば、「學術の二字則ち英語にてはScience and Arts」という言葉が第2段落第11~12文にあり、次の第2段落第13~14文やその他第4段落第4文でも同様だ。
となると、隠岐先生の見立てはちょっとマズくて、西は①諸学が連環しながらもばらばらに「切れている」ことを重視していたことは言えるが、②scienceを「科学」=「分科の学」と訳し、本来の学問そのものという意味内容を見えなくしてしまったという主張は誤りに近いと思う。正直に言って、最初から図式ありきの議論に思えてならなかった。
(追記)
他にも、19世紀におけるscientistの用法についても議論がありそうだ。
この、scientistは「自然科学ばかりに夢中になっている人」という意味で皮肉まじりに提案された、というのは誰の解釈なのか(隠岐さん自身?)。ヒューウェルの1834年の書評を読んでも1840年の本を読んでも、むしろ蛸壺化しがちな諸分野をまとめるための言葉としてscientistを提案したと読めるのだが。 https://t.co/bkyKoEIQwk
— 伊勢田哲治 (@tiseda) 2018年9月17日
それに続く「ギーセン大学を卒業した「職業科学者」たちが増えて、科学の専門分化が進展すると、scientistという語は定着していきました」(p.57)という記述も、英語圏とドイツ語圏の話を混ぜるのは危険では。
— 伊勢田哲治 (@tiseda) 2018年9月17日
時期的にも、リービヒのラボの卒業生たちが活躍しはじめた時期とscientistが広まる時期はずれるのでは。リービヒラボは1830年代には確立していたようだが、ngram検索でざっくり分かるように、scientistという言葉が広まり始めるのはようやく1860年代後半から。
— 伊勢田哲治 (@tiseda) 2018年9月17日
細かな問題はあれ、建設的な議論の土台を提供してくれる重要な仕事だと思うので、逐一の訂正をしつつ、よりコアな議論がなされれば良いのではないか。
- 『nyx』第5号
[asin:4906708722:detail]
ギンギラギンなやつ。佐々木雄大さんと江川純一さんによる「聖なるもの」と斎藤幸平さんによる「革命」の特集号、千葉さんのガブリエルインタビューの三つが目玉ではあるが、飯田賢穂さんによる「なぜ、哲学なのか? 発言する哲学、越境する哲学」と題された、明治大学哲学専攻創立記念シンポジウムもレポートも掲載されており、その中で当日合田先生が言及してくださった拙論の情報もしっかりと明記してくださっております。
すべて読むのは時間がかかるが、まずは佐々木さんによる「〈聖なるもの〉のためのプロレゴメナ」と主幹二人による「〈聖なるもの〉と私たちの生」を。レヴィナスにおいてはsacréとsaintetéとが区別されて使われるが――彼は後者に肯定的な意味を見出す――、その背景にある宗教学的人類学的な広がりやポイントを抑えることができた。
[asin:4791713702:detail]
ブノワの論文も訳されていると知り、ポチった。
いわゆる思弁的実在論が流行る前から、フッサールやカントを精緻に読解しつつ、独自の実在論哲学を打ち当てようとしているブノワの業績は、まだまだ日本には紹介されていないと思う。これを機に少しでも注目が集まればと思う。
- ステファン・コイファー『現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために』
- ロランス・ドヴィレール『デカルト』
[asin:4560510229:detail]
「〈無限なもの〉に焦点をあて、デカルト哲学の全体像を再解釈」というレヴィナス屋として放っておけない文句に惹かれて。
2013年に出版された本の翻訳。訳者は『[asin:B0794VBL9C:title]』を書かれた津崎さん。この二書で一気にデカルト研究のアップデートを初心者にも理解できるようにできるようになったのではないか。ところどころにある訳注や末尾の解説も大変丁寧。
- 岩倉文也『傾いた夜空の下で』
いぬのせなか座の山本さんによるレイアウトとのことだが、今回はかなり抑え目。というかふつう。
岩倉を評するのは難しい。福島から新時代の詩人が現れた!という「美しい」ストーリーの軽薄さには嫌気がさすも、本当に福島出身という事実を彼の詩から完全に奪って良いのかと思うと少しモヤモヤするし、現代の中原中也!と簡単に〇〇二世で片付けてしまうことへの嫌悪感とも闘わなければならない。
退廃的な世界観と歯切れのよい言葉の取捨選択。彼の詩はいつも一人だ。今後の展開にも期待したい。
- 『STUDIO VOICE vol.413』
ざわめきがすごい。誰も知らない。
- ケン・リュウ『折りたたみ北京』
所収されている作品のクオリティには目を見張るものがある。
序文で選者のケン・リュウは過度なチャイナ・バイアスに警鐘を鳴らす。要するに、情報統制の話題があれば、すぐに共産党批判キターーと指摘しても意味ねえし、なんもはじまらねえぜと。クオリティを考えても、オリエンタリズムへの対処としても真っ当なものだろうと思う。とはいえ、ケン・リュウの活動を知れば明らかだが、お行儀のよいメトロポリタンにしてコスモポリタンにでもなって、ワールドスタンダードに身を投じれば良いというわけでもない。やはりそこには中国だから描けたこと、想像できたことがある。
簡単だが知的怠慢とも言える分類法を超えて、(東)アジアのクリエイティブを考えたい今、非常に刺激的な読書体験だった。
- クリストファー・プリースト『隣接界』
[asin:4153350354:detail]
Kindleセールにて。我らが太田くんおすすめだったので。
徐々に世界がおかしくなっていく描写はさすが。読みやすい。
- トマス・スウェターリッチ『明日と明日』
[asin:B014F70OS6:detail]
Kindleセールにて。こちらも我らが太田くんおすすめだったので。
まだちょっとしか読めていないが、アーカイブという問題は自分としては気になるのだが、これまで敬して遠ざけるみたいなところがあった。ちょっとこれをきっかけに色々読んでみたくなる。
- カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』
[asin:4150103534:detail]
Kindleセールにて。
『タイタンの妖女』や『スローターハウス5』は読んだことがあったが、こちらは未読であることに気づき購入。
これから読みます。
- 吉野源三郎『職業としての編集者』
- 竹内 洋『教養主義の没落』
[asin:4121017048:detail]
某書評のために。