2017年5月の本

 以前同僚が運営しているウェブメディアに寄稿したことがきっかけで、いくつかお仕事をいただく機会があり、その準備もあってGWは改めて大学論(若手ワープア問題・人文学論)関連の書籍をまとめて読んだ。

「今月の本」のルール

  1. 毎月読んだ本をリストにしてブログを更新。
  2. 読んだと言っても、必ずしも全頁を読みきったことは意味しないし、再読したものもある。
  3. とはいえ、必ず入手し、本文に少しでも目を通すことが条件。
  4. コメントを書くかどうかは時間と体力次第。

[asin:4334034233:detail]
大学院重点化計画とそれに伴う若手研究者の悲惨な状況を記した書。本書の刊行は2007年なので、この分野では先駆的なものではないか。大学院や研究職のシステムに疎遠な人にも分かるようにという配慮のあらわれでもあるが、やや記述が冗長に感じられた。
また、分野ごとの分析はあまりなく、提言の部分もほぼ立命館大のサトウ教授の発言を引用するに留まっており、まとまったものは乏しいし、最終的には「利他の精神」を提示するなど、解決策の提示としては現実的とは言い難いように思えた。

  • 西山 雄二編『哲学と大学』

こちらは2009年刊。計5回のシンポジウムやワークショップの成果となっている。
カント『諸学部の争い』やフンボルトの大学論、ウェーバーの学問論などの古典からデリダハイデガーの大学論まで収められており、西洋における大学論の歴史を一望できる。巻末の参考文献リストも役に立つ。

  • 吉見 俊哉『大学とは何か』

2011年刊。本書は大学の理念の歴史を振り返ったもので、中世から近代までのヨーロッパにおける大学の変遷と戦後日本における高等教育改革がバランスよくまとめられおり、大学の大まかな歴史を捉えるのには役立つ良書である。
ただし、提言の部分については、頁数もさほど割かれておらず、レディングスの主張をなぞるようなかたちで終わっており、若干の物足りなさを感じた。政策論を提示するのか、あくまで学者として理念を突き詰めてみせるのか、あるいは大学教員として現場から吸い上げられる意見をまとめるのか、少なくとも論の立場を明示した上での見解が知りたかった。

  • 吉見 俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

[asin:B01DZI2WM2:detail]
2016年刊。『大学とは何か』の続刊的な位置づけ。

  • 三谷 尚澄『哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論』

[asin:4779511259:detail]
カントやセラーズの専門家である三谷氏による著作。地方大学の哲学教員の日常が赤裸々に語られている。
現代の人文学研究者を取り巻く環境や関心などを知る場合には有用あろう。大上段に大学論を論じるわけでもなく、目先の対策案に終始することもないという点では、記述のバランスが良いと思った。
私のいまの活動は、著者の言う「遊撃部隊」(p.43-44)的なものなのかもしれない。まあここでの比喩にはちょっと疑問に思うところがないわけではないし、いつまでも遊撃部隊をやってられっかよという気持ちもあるが。

  • 前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ 』

[asin:B072FGTM65:detail]
共感と驚嘆をもって読み進めた。ひろく「研究」を仕事をしている者は笑いと涙なしには読めない。本書の紹介については、クマムシ博士こと堀川大樹氏による書評以上のものはないので、そちらを参照してもらえれば。
やはり自分の人生を掛けていると、どうしても眉間に皺が寄り、私なんかは地から足が離れて、どんどん視線が遠くに(対象が制度とか歴史のような大きなものに)なりがちだ。しかし、本書を読んで、好きであるということを率直に語ることが引き起こす力のようなものを感じた。

  • 辻田 真佐憲『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年 』

[asin:B071CV14ZV:detail]
これは紙で買えば良かった(kindle版は頁がずれて引用に向かないので…)。
本書は、明治から現代までの文部省の動きを「理想の日本人像」の模索という軸を設定して概観したもので、これまでの日本の文教政策の流れが「普遍主義と共同体主義――現代では、グローバリズムナショナリズム――の相克」という図式で説明されていく。膨大な参考文献やデータが背後にあるはずだが、闇雲な物量作戦を取らず、冴えた整理をしながら進めていく著者の筆力には舌を巻いた。もちろん情報も豊富で、たとえば、最近一部の閣僚のなかにも「教育勅語」復活に与する言動があり、私なんかは驚き呆れたわけだが、こうした動きが過去に何度もあったことなども本書で初めて知った。
文部省は、この普遍主義と共同体主義のはざまで、良く言えば、それぞれの時代の課題(欧化、臣民化、反共、詰め込み教育グローバリズム, etc.)に柔軟に対応してきたと言えるが、悪く言えば、その時々の権力(薩長内務省、軍部、アメリカ、文教族、官邸)からの外圧に屈し、長期的で一貫した研究や施策をできてこなかったと言える。
革推進本部長の河野太郎氏に代表される文科省廃止の声もあるし、大学研究者から文科省の良い評判を聞いたことがない。しかし、教育や学術分野を官邸主導の国家戦略としてしまうことが、長い目で見て得策かと言われると、私は微妙だと思う。これにかんしては、筆者の以下の指摘がずばりという感じだ。

…「理想の日本人像」をめぐる議論は、しばしばイデオロギーの空中戦に陥る。実際、中曽根臨教審以来、空理空論ばかり集積され、なかなか実行に移されてこなかった。本書でもさんざん述べたように、今後重要なのは理念の「実装」である。そのためには、人気や空気に流される政治家や、飽きっぽい国民とは別に、安定的かつ中立的に教育に取り組む組織が欠かせない。また、審議会などから振ってくる抽象的なイデオロギーを適切に処理し、現実的な制度に組み立て直す役回りも必要だ。それゆえ、政治主導から一定の距離を取った、教育行政機関はこれからもなければならないだろう。

本書が大学研究者にも広く読まれることを望む。そして(以前から思っていたことなので、これにかこつけて言えば)学会単位での大学研究者と文科省との建設的な議論の場がもたれるようになればと。お互い馬鹿にしあって、気がつけばみんな死んでいるというのはあまりにおろかしい。

[asin:4771026734:detail]
もう一度古典的な大学・学問論を読みたいと思い、購入。学部生のときに、岩波文庫のものをレポートのために読んだ記憶がある。
本書は、『ヴェーバー『職業としての学問』の研究(完全版) 』の姉妹本とも言うべきもので、翻訳と「最小限の注記」および解説からなっているが、その注記や解説も他の翻訳書と比べれば十分すぎるほど充実している(訳本文が40頁ほどであるのに対し、訳注が上下二段で100頁、解説が約40頁であると言えばすぐにご理解いただけるだろう)。
『職業としての学問』のような古典が、研究蓄積を踏まえつつ、新たに訳し直されること自体評価されるべきであり、本訳書は日本語としても読みやすく、訳者による長年の研究の賜物と言うべき記念碑的な作品となっている。であるからこそ、「訳者まえがき」の言葉には首を傾げざるをえない点があった。

本書が圧縮版である所以の説明をしているところで、

《完全版》に対して、本訳書は、その《圧縮版》であり、そこに「日本語で読むことのできる参考文献」を付したものである。重要な典拠・論拠および考証の詳細は《完全版》のみに記しており、本訳書には、おおむね考証によって得られた結論のみを記しているにすぎない。したがって、研究者・大学院生は、かならず《完全版》を用い、そこから引用しなくてはならない。学術書・学術論文・学会報告において、本訳書(《圧縮版》)から引用することをいっさい禁ずる。 p. iii. ※傍点部分は太字に変更した

とあるが、最後の一文はあまりに独りよがりだろうと思う。専門的な学術研究において時代考証や解釈を問題とする場合は、《完全版》を用いるべきだという主張は分かる。しかし、『職業としての学問』は、より多くの分野の人が読み――そしてもちろん狭義の研究者である必要もないだろう――、そこから議論を改めて深めることのできる「古典」であるはずだ。本訳書は、まさにこれからのスタンダードになるべくして刊行された労作であるのに、予めその幅を狭めてしまうような訳者の姿勢には首肯できない。まして《完全版》は、8,640円である。ウェーバーやその関連領域の研究者であれば買うべきであろうが、それ以外の人間にはなかなか手を出しづらい価格だろう。だからこその《圧縮版》であるはずだ。
そもそも、引用における責任はすべて引用者に帰されるのがアカデミックな領域における基本的な約束事である。いくら証拠として別のテクストを引いてみせようが、最終的な説明責任を果たすのは引用した筆者ないし発表者を措いて他にない(例えば、仮に《完全版》で細かく論証している箇所にかんして、《圧縮版》のみを引用してその不足を批判したところで、信頼を失うのはあくまでその引用者でしかない)。であれば、事前に「本書引用するべからず」と記すること自体がナンセンスなのである。表に出されて困るものなら、出さなければ良い。
《完全版》への筆者の矜持やそこに懸ける思いがあればこその言葉だろうと推察するが、そうであれば《圧縮版》は一切の解説や注記もなくして、本文と文献一覧、索引などの最小限の構成にして――学術書ではなく一般書という分類にして――、より手頃な文庫本なり最低限ソフトカバーでの刊行を目指すべきだったのでないか。
さらにぼやいてしまえば、本書の訳文自体は《完全版》と同一であり、訳それ自体は「定本」となることを目指したものである割りには、追加修正や誤記が多すぎる。追加で挟まれていた正誤表の紙には、10個もの追加修正が加えられている。さらに、「訳者まえがき」によれば、《完全版》刊行後に8箇所の誤りを見つけ、《圧縮版》では既に修正したこと、《完全版》の第二刷りで改めて修正することが触れられている。翻訳に完璧はないので、誤記や追加の修正が出てしまうことは仕方のないことであるし、訳者を責めようとは思わない。むしろ出版社のチェック体制や刊行までのスケジュールに不備があったのではないかと思ってしまう。
いずれにせよ、中身は素晴らしいのに、それ以外の部分のせいで読後感はあまりよろしくない。

  • 齋藤 毅『明治のことば』

[asin:4061597329:detail]
オリジナリティ溢れる分析はおもしろいが、やや古くなりつつある(昭和52年刊なので仕方なし)。たとえば、訳語「哲学」の西周津田真道共同考案論であるが、主流とは言えず、現在賛同する者はほぼいないだろう(cf. 菅原光『西周の政治思想』)。しかしそれでも本書は資料編的な価値もあり、この分野においてまず読まれるべき一冊。

  • 中江 兆民『一年有半』 鶴ヶ谷 真一訳

[asin:B01M0FO127:detail]
「我日本古より今に至る迄哲学無し」という有名な一節がある本。本書は現代語訳なので、「わが日本には古くから今に至るまで哲学がない」となっています。
こちらもkindleセールに乗じて購入。丁寧な注が多くついているので、読みやすかった。

  • J. S. ミル『自由論』斉藤 悦則訳

[asin:B00H6XBJJ0:detail]
西周もマジリスペクトしているミルの偉大な古典。岩波訳はもっているが、kindleセールに乗じて購入。
「多数派の専制」の危険から「個人の自由」を守るための基本原理の探究というのは、いま一度考えねばならない重要な問題になっている。

[asin:4771020221:detail]
最近レヴィナス倫理学にかんする情動(emotion)の問題に関心が出てきたので。
佐藤先生のレヴィナス本は当然読んでいるが、こっちはあまりきちんと読んでいなかった。本書はメルロ=ポンティが主であるが、もっと早くに読むべきものだったと反省。

  • 『現代デカルト論集 フランス篇、日本篇』

[asin:4326101091:detail]

とりわけフランス篇を入手するのが困難だったので、以前は図書館で都度必要な論文をコピーしていたが、古書で安く手に入った。

  • 藤田 正勝『九鬼周造 理知と情熱のはざまに立つ〈ことば〉の哲学 』

[asin:4062586304:detail]
どうも私は西田幾多郎田辺元などの京都学派の哲学者が苦手で、うまく読み進めることができない。
そんななか、例外が2名ほどおり、それが九鬼と三木清である。本書は、九鬼の新しい入門書で、彼の思想の全貌をうまくみせてくれる。
話は変わるが、彼の父である九鬼隆一は、明治時代の文部官僚でその活躍というのもなかなかおもしろいものがある。

  • 瀬戸 一夫『時間の思想史―アンセルムスの神学と政治』

[asin:4326101768:detail]
古本屋のセールにて購入。時間論の歴史としては名著と名高い一冊。なるため、こういう大きな仕事をゆっくり読む時間を確保したい。

[asin:4862512119:detail]
邦語のレヴィナス関連はすべて買うという制約を自身に課しているので購入。

比較研究がほとんど行われず、これまで無視されてきた2人(ウィトゲンシュタインレヴィナス)の類似性と緊張と、彼らを代表者とするしばしば敵対する知的伝統を解明する。

とあるが、両者を比較検討を含むものとしては、一応すでにポール・スタンディッシュの『自己を超えて』がある。原書で考えても、スタンディッシュが1992年、プラントが2005年なので、そこまで無視されてきたかと言うと微妙である。さらに言うと、未邦訳だが、Søren Overgaard, Wittgenstein and Other Minds: Rethinking Subjectivity and Intersubjectivity with Wittgenstein, Levinas, and Husserl, Routledge, 2007. もあるので、割合研究がされている印象もある。
とはいえ、スタンディッシュのものはレヴィナスウィトゲンシュタインの思想的関係をそこまで掘り下げたものではないし、両者の倫理的・宗教的な論点を中心とした点では、先駆的と言えなくはない。

  • Peter Goldie(ed.), The Oxford Handbook of Philosophy of Emotion

[asin:0199654379:detail]
情動とか感情のおべんきょ用。順番としては、SEPのSEPのemotionempathyの項目を読んでからこれかな。
邦語のだと、『感情とクオリアの謎』とか『新・心の哲学III 情動篇』とかになるんだろうか。ただ、関心が倫理学との関連(フッサールの感情移入とレヴィナス)なので、もう少し絞るか、あるいは18c周辺のイギリス倫理学あたりを掘った方が良いのかもしれない。おしえてくわしいひと!

  • Flora Bastiani(dir.), Bergson, Jankélévitch, Lévinas

  • Sophie Nordmann, Levinas et la philosophie judéo-allemande

www.amazon.fr

  • Danielle Cohen-Levinas et Alexander Schnell(éd.), Relire Autrement qu'être ou au-delà de l'essence d'Emmanuel Levinas

www.amazon.fr

久しぶりに専門にかんする二次文献を買った。
Bergson, Jankélévitch, Lévinasは、その名の通り、三者の影響関係や思想の相違点を問うたもの。レヴィナスとの関連で言うと、彼はベルクソンには終生尊敬の念を抱いていたわりに、理論を取り込んでいる印象は薄いが、その辺ほんとうにどうなの?というのはまだまだやり残されているし、ジャンケレヴィッチは同時代人だしハイデガーへの態度なんかはかなり論点を作り出せると思う。
Levinas et la philosophie judéo-allemandeは、レヴィナスの著作に現れるドイツユダヤ思想の源泉を辿るもので、もともと Nordmannはユダヤ思想の専門家だし、信頼も置けるだろう。主要な登場人物は、ヘルマン・コーヘン、ローゼンツヴァイク、ブーバー、ショーレムレヴィナスという感じ。
Relire Autrement qu'être...は、Relire TIの姉妹本というか続編で、メンツもかなり被っている。とはいえ、今後AEを読むに当たっては無視できないものになるだろう。